佐藤タイジについてあれこれ思うこと
2004年3月13日 音楽シアターのエピック在籍総決算のベストを買って、おまけのDVDを散発的に見ている。
佐藤タイジ君。かっちょええ〜なぁ〜〜。
まず、ブックレットの表紙の写真が、めちゃめちゃかっこええ。
暮れなずむ空に、ギターを持って歩いているタイジ君のシルエット。ものすごく絵になっている。
ギタリストって、こういう様が絵になるからいいよねぇ。
ベースじゃちょっとでか過ぎるし、スティック持ってじゃちょっと説得力に欠けるかもしれないし、キーボードはじゃぁどうするんじゃって、ねぇ。
映像(ライブもPVもどちらにも)、ギターが2本のライブもあったんだ〜。中条さんがミュージックマンのベースを使ってるわ〜。タイジ君、ホロータイプかなぁ、あのギター。おう、そんなに短い髪の時もあったんだぁ。。。。などなど。へぇ〜って思う場面がたくさんある。(何たって、シアター暦が1年経っていない身の上なので)
PVも面白いね。もちろん監督の色があるのだろうけれど、何となくタイジ君の世界観が透けて見えるような気がする。
ちょっと本題から外れるのだけれど、私は街で人々とすれ違って、その人たちが日本語でない言葉で話していたりすると、ちょっとほっとする。
これは、短い期間ではあるけれどアメリカで暮らしたせいかもしれないのだけれど。
色々な人がいて、色々な肌の色、瞳の色、髪の色、様々な体型、知らない言語・・・。こういうものが回りにあると、ちょっとほっとするのだ。
逆に、黒い髪の毛ばかりが並んでいると、息苦しくなることがある。
人は色々な価値観や姿を持っていて、とても多様だ。
それは恐らくたくさんの人が知っていることなのに、日常生活の中で同じような見かけや同じような価値観の人たちばかりと接していると、その閉じられた輪の外にあることを忘れがちになる。
そうして、違うものを排斥しようとしたりする。
例えば、若いということは素敵だ。様々な可能性をたくさん持っている。肌はぴんっと張っていて、姿も美しい。若いうちは何をしていても、それなりに魅力的に見える。
でも、若さは失われる。
若さの上に、あるいは若さが失われた後に、魅力を構築してゆくのは、自分だ。
若くて魅力的な人、若くても魅力的ではない人、年を重ねて魅力的な人、年を重ねても魅力的でもない人・・・と、社会には多様性が存在している。
(もちろん、これは主観的な事実だし、多様性のほんの一例だけれど。絶対的な魅力や価値なんてない。)
だから、色々な姿があって、色々な音が聞こえてくると、多様性ということが目に見えて具体的になるので、ほっとするのだと思う。
佐藤タイジには、何となくこういう多様性に根ざした魅力があるような気がするのかな。
彼はミュージシャンとして音楽をやり続けてきて、セールスという秤では、大成功した人ではないのかもしれない。
でもね、若い頃の画像を見て、そして今、現在のライブを見る機会に恵まれて、彼のロックミュージシャンとしての発言を知って・・。確かに彼の中に構築されている、ミュージシャンとして生きてきたチカラ、そのエネルギーを感じることが出来る。40近くの人間としての、音楽を基盤とした、その人間としての魅力というものをとても感じる。
やるじゃねぇか、と。
彼の考え方が「絶対的に」正しいわけではない。(それは沼澤氏の発言にしてもそうだ。あれが「正しい」わけではないと思う。彼がそう思っている、というだけで。)
でも、価値観なんてそんなものだ。
彼らが「自分として」生きていく方法としてこうしたいんだ、っていう発言に対して、様々な反応が出て当然だし、それに同感する人、反発する人、怒る人など、色々いるのが逆に当たり前だ。
それが、多様性なんじゃないのかな。
自分にとって好ましい人、好ましくない人。美しい人、美しくない人。魅力的な人、魅力的じゃない人。カッコよい人。醜い人。賢い人。愚かな人。
こうした多様性が自分が生きている社会に存在していて欲しいと恐らくいつもココロの中で望んでいるのだろうな。
だから、年を重ねながら魅力的な人を見ると、嬉しいし、ほっとする。
シアターブルックが、「20代のイケてるにぃちゃん」という時を過ぎても、決して商業的には大成功なわけではなくても、かっこよいロックミュージシャンであり続けていることに対して、とても素敵だと思うし、嬉しく思う。このまま走っていって欲しいし、見続けていたいな、と思うのだ。
佐藤タイジ君。かっちょええ〜なぁ〜〜。
まず、ブックレットの表紙の写真が、めちゃめちゃかっこええ。
暮れなずむ空に、ギターを持って歩いているタイジ君のシルエット。ものすごく絵になっている。
ギタリストって、こういう様が絵になるからいいよねぇ。
ベースじゃちょっとでか過ぎるし、スティック持ってじゃちょっと説得力に欠けるかもしれないし、キーボードはじゃぁどうするんじゃって、ねぇ。
映像(ライブもPVもどちらにも)、ギターが2本のライブもあったんだ〜。中条さんがミュージックマンのベースを使ってるわ〜。タイジ君、ホロータイプかなぁ、あのギター。おう、そんなに短い髪の時もあったんだぁ。。。。などなど。へぇ〜って思う場面がたくさんある。(何たって、シアター暦が1年経っていない身の上なので)
PVも面白いね。もちろん監督の色があるのだろうけれど、何となくタイジ君の世界観が透けて見えるような気がする。
ちょっと本題から外れるのだけれど、私は街で人々とすれ違って、その人たちが日本語でない言葉で話していたりすると、ちょっとほっとする。
これは、短い期間ではあるけれどアメリカで暮らしたせいかもしれないのだけれど。
色々な人がいて、色々な肌の色、瞳の色、髪の色、様々な体型、知らない言語・・・。こういうものが回りにあると、ちょっとほっとするのだ。
逆に、黒い髪の毛ばかりが並んでいると、息苦しくなることがある。
人は色々な価値観や姿を持っていて、とても多様だ。
それは恐らくたくさんの人が知っていることなのに、日常生活の中で同じような見かけや同じような価値観の人たちばかりと接していると、その閉じられた輪の外にあることを忘れがちになる。
そうして、違うものを排斥しようとしたりする。
例えば、若いということは素敵だ。様々な可能性をたくさん持っている。肌はぴんっと張っていて、姿も美しい。若いうちは何をしていても、それなりに魅力的に見える。
でも、若さは失われる。
若さの上に、あるいは若さが失われた後に、魅力を構築してゆくのは、自分だ。
若くて魅力的な人、若くても魅力的ではない人、年を重ねて魅力的な人、年を重ねても魅力的でもない人・・・と、社会には多様性が存在している。
(もちろん、これは主観的な事実だし、多様性のほんの一例だけれど。絶対的な魅力や価値なんてない。)
だから、色々な姿があって、色々な音が聞こえてくると、多様性ということが目に見えて具体的になるので、ほっとするのだと思う。
佐藤タイジには、何となくこういう多様性に根ざした魅力があるような気がするのかな。
彼はミュージシャンとして音楽をやり続けてきて、セールスという秤では、大成功した人ではないのかもしれない。
でもね、若い頃の画像を見て、そして今、現在のライブを見る機会に恵まれて、彼のロックミュージシャンとしての発言を知って・・。確かに彼の中に構築されている、ミュージシャンとして生きてきたチカラ、そのエネルギーを感じることが出来る。40近くの人間としての、音楽を基盤とした、その人間としての魅力というものをとても感じる。
やるじゃねぇか、と。
彼の考え方が「絶対的に」正しいわけではない。(それは沼澤氏の発言にしてもそうだ。あれが「正しい」わけではないと思う。彼がそう思っている、というだけで。)
でも、価値観なんてそんなものだ。
彼らが「自分として」生きていく方法としてこうしたいんだ、っていう発言に対して、様々な反応が出て当然だし、それに同感する人、反発する人、怒る人など、色々いるのが逆に当たり前だ。
それが、多様性なんじゃないのかな。
自分にとって好ましい人、好ましくない人。美しい人、美しくない人。魅力的な人、魅力的じゃない人。カッコよい人。醜い人。賢い人。愚かな人。
こうした多様性が自分が生きている社会に存在していて欲しいと恐らくいつもココロの中で望んでいるのだろうな。
だから、年を重ねながら魅力的な人を見ると、嬉しいし、ほっとする。
シアターブルックが、「20代のイケてるにぃちゃん」という時を過ぎても、決して商業的には大成功なわけではなくても、かっこよいロックミュージシャンであり続けていることに対して、とても素敵だと思うし、嬉しく思う。このまま走っていって欲しいし、見続けていたいな、と思うのだ。
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